今回は、ネット社会で拡がりつつある多数決と情報発信について考えてみます。小生は、この二つが一体となってネット社会を形成していると考えるようになりました。つまり、多数決の原理が機能するためには情報公開の平等性が担保されることが必要であり、平等性が保証された情報の質を決めるためには多数決が必要となるという密接な相互依存の関係が成り立っているという仮説です。といいますのも、IT業界ではフリーソフトに代表されるオープン化と、ディファクトスタンダードという多数決原理に従った標準化が定着しています。この動きと関連していると考えた次第です。
多数決については単純明快な原理ですので考察することはありません。小学校で多数決の原理を習った際に、一緒に教えられた少数意見の尊重ということについても論ずるところはありません。政治における多数決で一つ注意すべきが衆愚政治やポピュリズムなのですが、これは受け入れるしか無いように思います。
しかしながら、情報の平等性については考えるところが多いと思います。フェイク報道やネットによる個人攻撃やいじめ問題を契機に情報発信者に対する規制が顕在化しています。しかしながら、既に議論されているように言論の自由との関係で考えなければいけないことが多いと思います。ネット社会における情報の平等性を担保するために、政府などによる情報抹消には反対する意見も多いです。小生も以前は規制に賛成する立場でしたが、最近、少し考えるようになりました。言論の自由こそが、全体主義と自由主義の境目になるように感じるようになったからです。ウクライナ以降、ロシアの報道や世論動きを見るにつけ、大本営発表や鬼畜米英などなど、世界大戦前の我が国の状況に酷似してように思えます。マスコミを通じた言論統制と思想刷り込みの恐ろしさを感じています。一方で、トランプによる選挙不正告発に触発された人達の議会乱入事件が起こった後でも、トランプ人気は収まりを見せていない米国の状況は、言論の自由が保障されている証拠とも言えます。フェイスブックなどの情報管理者がフェイクと思われる情報を削除していることについても賛否両論があるようです。
小生は、情報発信の平等性と、発信された情報による影響は、別のものとして捉えるべきだと考えるようになりました。情報発信は自由に行うことを保証した上で、その情報によって被った被害や、中傷された方の自殺などの行為に対しての責任については、情報発信者及びその同調者の罪を問うというものです。又、企業不正や汚職などについても、ネットによる内部告発に端を発するものが多いです。従って、ネット社会を含めた刑法の見直しが必要で、警察機構、裁判制度の改革も必要だと感じています。
以上、現在のところの小生のネット社会に対する考え方は、情報発信の平等性を第一に担保し、衆愚に陥ることがあったとしても多数決の原理に従うというものです。その上で、衆愚に陥らない為にも、最も重要なことがモラルの醸成だと考えるようになりました。モラルの醸成については、古典的ではありますが、家庭から始まり地域社会、集団社会、国家と拡大していくと思います。今後、ネット社会とリアル社会の関連性が増していくに連れ、モラルに深く関与する宗教が、政治よりも大きな課題となる時代が来ているようにも思います。
以上