結果責任 営業雑感NO.158

 コロナ禍の中で無責任な発言をする政治家が、何と多いことか?選んだ我々の責任なのですが、新しい政治家を産み出すしくみが無いように思えてきました。議員や政党に関する法律を理解し、それを変えるキャンペーンをしないことには、これまでの新党騒ぎのように政治家のパフォーマンスだけに終わる気がしてなりません。前回お話しをしたようにインターネットが鍵を握っているのかもしれません。冒頭から横道にそれましたが、今回は、責任について考えてみます。

 責任には、行為に対する責任と意思決定に対する責任の二つがあると考えています。最終的には、行為によって変化が起こり、その変化に対して責任をとることになるのですが、行為を為す人と意思決定を為す人は同一人物であるとは限りません。従って、行為に対する責任は個人に属し、意思決定に対する責任がリーダに属すると愚考しております。従って、リーダの責任とは、自らの行為だけでなく、自らの意思決定に従った部下の行為に対しても責任をとることになります。

 一方で責任をとるということは、どういうことか?を考えてみます。人は行為を行うことで組織や社会に自らを示すというのが私の持論ですので、責任をとるということは、誰に対して、何を為すのか?だと考えます。誰にという点は、企業においては「お客様」「従業員」「株主」「社会/地域」の四つのステークホルダーに対して、ということで明確です。更に、企業には内規があり、様々な企業活動における従業員の行為に対する減給・降格・解雇などの懲罰が決められています。現在、経営と業務執行を分割して、取締役と執行役員を分けている企業が増えておりますが、これは、経営者は株主に対して責任をとる存在であり、お客様や従業員に対しては執行役員が責任をとる形態となっております。余談ですが、これは米国型の企業に対する考え方を新会社法として導入した、小泉内閣時代の竹中平蔵氏の為した結果であり、小生としては、株主重視の米国型から、お客様重視の日本型経営に戻すべきと考えています。このようにリーダは、自分の属するチームや組織が、行為を為す相手と組織員に対して責任をとることになります。

 ここで注意しておきたいことは、組織が大きくなればなるほど、意思決定と行為者の間が拡がり、その間に多数の人が存在することです。加えて、その間にいくつかの意思決定もなされています。ですから、本当に責任をとるべき意思決定がどれであったかを明確にすることが必要であり、それを解明するのが、監査部門や第三者委員会に代表される外部委員となります。しかしながら、本来は簡単なことで「部下の手柄は部下のもの、部下の失敗は上司の責任」を自覚している方が上司になればいいことです。このモラルが定着していれば、意思決定と責任が個人の中で完全同期します。従って、責任をとるという行為も、問題発生後、速やかに実施されます。残念ながら、責任を誰がとるのかを決めるまでに時間がかかり、最終的により下層の方に責任をとらせる「トカゲのシッポ切り」が増える傾向にあることを憂いています。

 冒頭の政治家の話になりますが、政治家の責任を取るべき相手は選挙民であり、選挙民に選ばれるか?否か?だけが政治家の責任の取り方になりますので、コロナ感染爆発の中で開催されようとしているパラリンピックについても、不思議な発言が多いことも、選挙次第と考えているとしたら納得するしかないのかもしれません。公約よりも、その政治家の為した意思決定によって選挙民が投票を行うようにならない限り、今の政治家の態度は改まらないような気がします。同様に、官僚や公務員は国民に対して責任をとるべきなのですが、上司や政治家におもねり国民に君臨するかのごとき態度をとる方がおられるのが残念です。全ては、行政TOPである総理大臣のモラルに帰属していると愚考しております。

 リーダが部下に対するモラルを堅持し、誰に対して責任を取るべきかを考えてから、意思決定をすることが出来る組織が、インターネットの進展や様々な価値観が交錯する不透明で激動するであろう時代を生き残る道であると考えます。

以上