「信」について 営業雑感No.93

 コロナ禍の中で、政治家の様々な無責任発言や、自分勝手な行動をとる方のニュースを見るにつけ、「信」なき世の中になってきたと感じます。そこで、今回は「信」について考えてみました。「信」とは儒教の概念で、仁・忠・孝などと同様に人間として、最も大切な行いとされています。意味合いとしては、誠実に生きる・嘘を付かないなどが挙げられますが、小生は言ったことは守る、つまり「言行一致」と理解しています。「人が言うことにより信が生まれる」と字の成り立ちも小生流に解釈しています。

 儒家と、法家や兵家の最大の違いも「信」です。孫子の兵法で有名な「兵は詭道なり」とは言行不一致が基本にあります。又、法家のいう「全ては法に従う」ということであれば言行一致は必ずしも必須とはなりません。法家の概念からすれば、根拠となる数字や事象の積み重ねが重要となります。公文書改ざんや曖昧な総計データなど、現状は法家のアプローチでも問題が多いと思います。それはさておき、儒教精神が戦前教育と一体視されて軽んぜられている今の日本では「信」への意識が薄らいできているように感じます。

 加えて、最近の傾向としては、上位の人ほど「言行不一致」が許されるという風潮が広がっているようで危惧しています。いわゆる特権階級の存在です。特権階級は明確に存在しているのに、それを問題にしないマスコミの姿勢も???です。正直、不倫や芸能ネタはどうでもいいというのが小生の主張です。まして、海外の交通事故などは朝一のニュースに必要ないと思います。それよりも、もっと政治について、取材をして国内の課題を浮き彫りにしてほしいと感じます。国家の最高位の方が「理念実現の為には何でもする」と明言しています。コロナ禍の中でも憲法改正を持ち出す現実があります。本来、憲法は国民を規定せず国家運営に携わる人のみを規定しています。その憲法で規定されている方々(国会議員や国家公務員)が、憲法の解釈を曖昧にしたままで国民を規定する法案を通す訳ですから、民主主義の結果とはいえ釈然としないものを感じています。小生は、現政権がやろうとしていることに対しては、むしろ賛成の立場ですが、政策の問題ではなくモラルの問題であり、上位者のモラルが世間に連鎖することを気にしています。その基本となるのが「信」ではないでしょうか?

 又、コロナ禍の影響から、急発達しつつあるデジタルコミュニケーションでは、その場かぎりの発言や、メール・SNSのように発言者の顔が見えない発言など「言行不一致」がやり易くなっています。上位の人が当たり前のようにやっている「言行不一致」を、ネット上で自分がやっても罪の意識は殆ど無いのだと推察しています。ネットでの各種炎上やバッシングなどもこの延長と考えています。当初はネット上だけで「信」なきことをしていた方が、現実社会でも「信」なきことを平気で出来るようになってきているようにも思えます。

 仕事についての「信」は、人気のあった朝ドラ「あさがくる」で渋沢栄一の言葉として紹介されていました。「銀行とはお金を集めるのではなく、信用を集める」という概念によく顕されています。つまり「信用第一」が基本と考えます。しかしながら残念なことに欧米の経済学や経営学には信用という概念は殆ど出て来ません。逆に、騙される方が悪いという概念のほうが強いです。又、中国やユダヤ、ギリシャなど大昔からの経済エリート民族の中での信用は仲間の結束に置き換わっています。「血の掟」も当然のごとく存在しています。経済活動において、「信用第一」という仕事の仕方は、全世界に誇っていい日本的経営の考え方だと信じています。

 過日来日した世界一貧乏な大統領が残したメッセージも拝金主義の打破のために、「信」の追求による精神文化の向上に真意があるように愚考しております。第二次大戦前の日本人は、今より明確に「信」を大切にしていたように感じるのは小生だけでしょうか?もっとも第二次大戦で日本とアメリカが戦ったことを知らない大学生が50%近くいるようですから、文化継承もあったものでは無いのかもしれません。改めて中国古典の「大学」や「中庸」を講義する場が必要なのかもしれません。

 「嘘は泥棒の始まり」といいますが、言質を取られない常用句を用い、上辺を言い繕うことに長けた方が偉くなる世の中を「災い転じて福と為す」ではないですが、コロナとの闘いの中で、原点に返って考え直す機会だと思います。

以上

2020年5月10日 | カテゴリー : 閑話休題 | 投稿者 : csf-ishii