オリンピックのマラソン会場変更案の件で賛否両論が出ていますが、そもそも商業化した現状を見る限り「選手ファースト」は掛け声にすぎず、その本質である、スポーツと興業の関係を議論する以外は、場所についてはどちらでもよく興味が無い、というのが小生の意見です。都知事の「北方領土ですれば」発言は、私的にはウィットの効いた良い表現だと思います。それに引き変え「受けざるを得ない」発言は「さもありなん」の諦め境地です。
今回は、アマスポーツ協会や原発誘致の町などで見られるカリスマ的TOPについて考察してみました。以前の雑感でもお話しをしましたが、歴史に見る限り有能な君主による専制政治の時代が、安定した社会として語り継がれております。その意味では、カリスマ的TOPは悪い存在ではないと考えます。むしろ良い存在なのかもしれません。しかしながら、こちらも歴史に見る限り、世に悪政をひいたと言われている君主(ネロ・紂王・玄宗など)も皆、登場した時は、歴代最高の君主といわれていました。では、善悪どこが違っているのでしょうか?一番の問題は、本人ではなく廻りの取巻きにあるというのが、小生の結論です。善い君主には必ず、良い側近がいます。彼等は、君主の思いは忖度しますが、自らの判断で行動します。そして、その行動の責任は、当然自分でとります。ところが、悪い君主には、側近に代わって寵臣がいます。寵臣は、忖度の名のもとに「虎の威を借るキツネ」となり、下に厳しく、上に従順に行動します。そもそも、忖度とは「他人の思いを推し量る」ことで、上司の意向を重視することではありません。上司の意向を重視するとは「ゴマすり」です。殆どの寵臣は「ゴマすり」です。加えて、厄介なのは「ゴマすり」は、決して、自分で責任をとりません。良いも悪いも全て、上司の意向です。
脱線しますが、日本のマスコミは、何故「ゴマすり」を忖度と言い換えたのでしょうか?マスコミこそが「ゴマすり」体質にあると考えています。以前もいいましたが、先の大戦の責任者として、欧米の研究では、日本のマスコミ体質が指摘されています。日本のマスコミの源流は瓦版にあり、「読み切り」体質で「レポート」体質にないといわれています。読読者のゴマをする視聴率重視の今の体質もまさにそのままかもしれません。
上記から、私の考えるカリスマとは、単純に自分と接する人に説得力のある説明をし、相手をその気にさせて行動させる資質を持っている人だと愚考しています。その人をカリスマとして認知されるようにするのは廻りの取巻きです。廻りの取巻きの質次第で、その人のカリスマ性が善くも悪くもなると思っています。マスコミは取り上げませんが、悪いカリスマTOPの廻りは「ゴマすり」だらけだと愚考しています。組織の中の人は、よく判っている筈なのですが、日本人は体質的に反抗が不得手だと思います。「長いものには巻かれよ」思想です。従って、「ゴマすり」を引き連れたカリスマTOPが横行しやすいのだと愚考しております。もっとも、政治家といわれる人達にもそのタイプの方が多いように思います。それは、選んだ国民の責任なのでしょう。マスコミにしろ、政治家にしろ、思い込みと無抵抗な今の国民体質によるものと考えると忸怩たる思いです。
以上